【母さん】ありがとう
スマートフォンの着信履歴を眺めると半年前の母さんからの通話履歴がまだ残っています。
このまま折り返して電話すると「もしも~し!」と大きな声で母さんが電話に出るのではないかなっと思うことがあります。
天国にも携帯電話の電波が届いていたらいいのにな・・
母の病気
母さんが乳がんになったのは15年前の50歳代中半です。
当時ステージⅣと聞いて、北海道に飛んで帰ったことがあります。
がんの摘出をし、抗がん剤治療を続けて転移していそうな個所も撤去し、苦しい闘病生活を乗り越えて1度、完治するのです。
しかし、2019年に膵臓・胃・肝臓にガンが見つかり、すでに手術もできないという状況のまま、2020年6月に亡くなりました。
最後の1年間は、必死に希望を捨てずに生きようとしました。
母という人
母さんは、昭和24年生まれの71歳。
母さんの性格を一言で言うと「明るい性格」とありふれた性格の表現かもしれませんが、本当に明るく友達が多いひとでした。
がんで入院する時も4人部屋の病室に入るなり
「よろしくおねがいね~!!」
っと大きい声であいさつして、周りの人たちがびっくりしたそうです。
入院中は同じ部屋の人たちとも仲良く過ごしていたようですし、看護師さんとも楽しそうに話をしていました。
検温や薬を持ってきてくれる看護師さんには、お見舞いでいただいたお菓子や果物を「あ~~~ん」っと無理やり口の中に入れて食べさせていました。
同じ部屋のおばあちゃんが母より先に退院することになったそうですが、そのおばあちゃんは一人暮らしのようで
「家に帰っても一人で寂しいからここにいて母とお喋りしていたい」
と涙ながらに病室を出て退院して行ったのを思い出します。
苦労した母
そんな母さんは19歳の時に大恋愛の末、父と結婚したそうです。
周りの反対を押し切って結ばれたと本人は言っていました。
21歳で私を産んで、23歳で長女、26歳で次女の三人の子供を産んで育てました。
私が幼いころの母さんの記憶はいつも怒ってばかりだったというものしかありません。
母さんと父は早い段階で夫婦の仲が悪くなっていたようです。
そして、酒・金・女で逃げて行った父と離婚したのが私が15歳、母さんは36歳の時でした。
離婚した時はお金もなく、安いアパートに家具も何もない状態で、娘2人を連れて育てました。
私は母とは同居せずに、爺ちゃんと祖母ちゃんと一緒に暮らしました。
母さんは昔話をするときに「当時は本当に大変だった」と涙を流して話していたのを思い出します。
私が高校2年生の時に、爺ちゃんと祖母ちゃんの元を離れ、母さんと兄妹3人の4人で暮らしました。
約1年間だけでしたが、毎日楽しかったのを今でも覚えています。
母さんは、離婚してから明るくなりました。
化粧品会社に勤めセールスの仕事をバリバリやっていて成績はいつもトップに近かったと本人は言っていました。それから、「男性からモテモテだったんだよ」とも言っていました。
本当かどうかは本人しかわかりませんが・・・
母が亡くなる3年前、北海道で一人暮らしの母に私は聞きました。
「一緒に暮らすかい?」という質問に
母は即答で「一緒に暮らす」
と答えたのです。
一人暮らしが楽しそうだったのと友達が多い北海道から離れられないと思ったのですが、意外にも山形県で同居するという答えに驚きましたが、母さんも歳を取って少し心細く思っていたのかもしれません。
しかし、最後まで私と一緒に暮らすことはありませんでした。
一緒に暮らすと答えてから、一向にこちらに来る様子がないのです。
「いつ来るの?」と聞いても「もうちょっとこっちにいる」
こんな感じです。
今思うと無理やりにでもこっちに連れてくるとよかったかなっと少し後悔しています。
ありがとうの手紙
私は、大学へ進学するために北海道を離れました。
故郷から離れて暮らすようになると、年に3回里帰りしていたのが2回になり、1回になり、2年に1回になりというよに自分の生活が優先になって里帰りが減りました。
一度母さんに手紙を送ったことがあります。
北海道から離れて2~3年経った頃でしょうか
「親のありがたみが分かった。ありがとう。」
というような内容のものです。
母はすごく喜んでくれていたのを思い出します。
最後のお正月
2019年3月、母さんの体にガンが見つかります。ステージ4で膵臓や肝臓そして胃にまで癒着していて手術は出来ない状況でした。
私はがんが見つかってからの1年間、山形から北海道に2か月に1度通いました。
母さんはこのような状況になってからようやく「山形に行こうかな」っというのですが、抗がん剤で体力がなくなっている状態では移動に耐えられないと医師の先生が言いました。
闘病生活6カ月たったころ、奇跡的にガンが小さくなり体調も良くなったのです。
2020年のお正月は久しぶりに家族全員がそろって楽しくにぎやかなひと時を過ごすことができました。
母さんは「楽しかったね~」「来年はもう少し布団を用意しないとみんなで寝れないね」っと何度も同じことを言っていました。
本当に楽しそうでよかった。
しかし、お正月が終わると同時に体調が一気に悪くなり、抗がん剤を続けても回復の見込みがないという診断結果から、痛み止めを続けながら静かに最期を迎える施設「ホスピス」へ移ることになりました。
最後の電話
亡くなる1か月前に母さんから電話が着ました。
弱弱しい声でしたが不思議と普通の会話ができました。
よほど体調が良かったのか、それとも最後の力を振り絞ってのものなのか・・・
何気ない会話の最後に「犬飼おうかな」っと母さんが言ったのには驚きましたが、私も話に合わせて「退院したら飼ってあげるよ~どんな犬がいい?」と聞き返すと「顔がつぶれていて足が短くて・・」「パグかな?」と聞くと「そうそう、それそれ」・・・これが母さんとの最後の会話になってしまいました。
遺書
2020年6月に71歳で亡くなりました。
家族全員で過ごした最後のお正月に母さんはこっそり遺書を書いていました。
遺書の内容は、棺桶に一緒に入れてほしいものや、保険のこと、家のこと、お墓のこと、友達のことなど書いてありました。
棺桶に一緒に入れてほしいものは段ボールに入れて準備してありました。
何が入っているのか箱の中を確認すると、数珠や趣味の手芸の道具
そして、古い手紙が1通・・・
それは30年前に私が母さんに送った
「親のありがたみが分かった。ありがとう。」
の手紙が入っていました。
今まで大事に持っててくれてたなんて・・・
母さんへ
母さんはどんな人生だったのでしょうか。
あまり一緒に暮らせなかったので最後くらい山形で暮らしたかったですね。
北海道の4人で暮らしたあの1年間は今でも忘れることができない楽しい思い出です。
あの頃の母さんは生活するので精一杯だったかな。
結局、母さんに「ありがとう」と言えたのは、30年前に送った手紙の時だけ。
50年も生きていて1度だけだなんてね。
母さん、71年間本当にお疲れさまでした。
そして、母さん・・・・
ありがとう。